「究極の普通」とは?
「究極の普通」
スーツにおける「普通」という言葉は、ずいぶん軽く使われます。
無難だから普通。
目立たないから普通。
昔からあるから普通。
みんなが着ているから普通。
私は、どれも違うと思っています。
むしろ「普通」は、そんな簡単なものじゃない。
余計なものを足して格好良く見せることはできる。
流行を取り入れることもできる。
強い柄を使うこともできる。
シルエットを極端にすることもできる。
高価な生地の力を借りることもできる。
でも、それらを使わず、
ただ、その人が格好良く立っている。
これを作るのは、ものすごく難しい。
私は、その難しい「普通」を突き詰めています。
それを、「究極の普通」と呼んでいます。
ただし、私の言う「究極の普通」は、没個性ではありません。
むしろ逆です。
私は、“なんとなく”を終わらせると、人は静かに“尖る”
と考えています。
「究極の普通」、「”なんとなく”を終わらせると、人は静かに”尖る”」
この二つは、別々の言葉ではありません。
“なんとなく”を一つずつ取り除いていった結果、
その人自身の輪郭が静かに現れる。
その状態こそが、私の「究極の普通」です。
では、その「普通」を何を基準に作るのか。
ここを感覚で決めたら、また“なんとなく”に戻ってしまう。
だから私は、一度、スーツの歴史を遡ります。
私が基準としているのは、1930年代に完成度を高めたスーツの構造と、戦争を経て1950年代に再構築されたスーツのバランスです。
肩から胸へどう繋がるのか。
どこにウエストを置くのか。
着丈をどこまで取るのか。
ジャケットとパンツの重心をどこで合わせるのか。
股上をどれだけ取り、渡りから膝、裾へどう線を繋ぐのか。
そこには、人間の身体を格好良く見せるための構造があります。
だから私は、一度そこへ戻る。
しかし、1930年代や1950年代のスーツを作りたいわけではありません。
ここは、かなり重要です。
昔のスーツをそのまま再現したところで、それは「究極の普通」にはならない。
今を生きる人に昔の格好をさせれば、古臭くなることもある。
クラシックをやり過ぎれば、本人ではなく服が目立つ。
場合によっては、その人がいる場所の空気まで壊す。
それでは意味がない。
私が欲しいのは、昔の形ではなく、なぜ、そのバランスが美しいのかという根拠です。
その根拠を一度基準に置き、そこから目の前の人に合わせて動かしていく。
ここからが、私の仕事です。
基準は持つ。でも、正解を固定しない。
それは、人はみんな同じサイズで、ましてや、同じ環境で生きているわけではないから。
肩幅が違う。
胸の厚みが違う。
身長が違う。
腕の長さも、脚の長さも違う。
姿勢も違う。
そして、その人がスーツを着て立つ場所も違う。
営業職なのか。
経営者なのか。
人前で話す仕事なのか。
大切な人と食事をするのか。
普段ほとんどスーツを着ない人なのか。
当然、答えは変わります。
だから私は、1930年代や1950年代の数値をそのまま当てはめることはしません。
一度基準に置いて、目の前の人に合わせて数値を動かす。
ただし、動かす以上は理由が必要です。
なぜ、この肩線なのか。
なぜ、この着丈なのか。
なぜ、この胸のゆとりなのか。
なぜ、この股上なのか。
なぜ、このパンツの太さなのか。
なぜ、この人には、この重心なのか。
私は、ここをしつこく考えます。
その「なぜ?」に答えられないものを、私は“普通”とは呼びたくありません。
答えがないものこそ、「なんとなく」だからです。
「みんなこんな感じですよ」が、私は嫌いです。
スーツを作るとき、「普通はこれくらいです」
という言葉は、とても便利です。
「今はこのくらいです」
「皆さんこのくらいです」
「これが一般的です」
それで話は終わる。
でも、私は思うんです。
目の前にいる人は、「みんな」じゃない。
同じ身長でも身体は違う。
同じ年齢でも違う。
同じ職業でも違う。
まして、その人がどう在りたいかなんて、平均値では出てこない。
それなのに、「普通はこれくらい」で全部を決めてしまう。
それは普通なんじゃない。
考えることをやめただけじゃないの?
私は、そう思っています。
だから私の「究極の普通」は、全員同じになりません。
むしろ、人によって違って当然です。
基準があるから、違わせることができる。
ここは結構、大事なところです。
基準がなければ、ただ好き勝手に変えているだけです。
基準がある。
そこから「なぜ?」を持って動かす。
だから、その人の答えになる。
数センチの「まあいいか」が、人を惜しくする。
スーツの失敗って、ものすごく分かりやすい失敗ばかりではありません。
肩が明らかに大きい。
袖が異常に長い。
パンツが履けない。
そんなものなら、誰でも分かります。
本当に厄介なのは、別に間違ってはいないスーツです。
着丈が、ほんの少し長い。
胸のゆとりが、少し多い。
パンツが、少し細い。
股上が、少し浅い。
一つだけ見れば、「まあ、こんなもんでしょう」で済む。
ところが、その「まあいいか」が何個か重なる。
すると、なんとなく重い。
なんとなく頼りない。
なんとなく古い。
なんとなく若作りに見える。
なんとなく惜しい。
本人も説明できない。
周りも説明できない。
でも、何かが違う。
私は、この状態が一番嫌いなんです。
なぜなら、全部、それなりに合っているから。
だから見逃される。
そして、その人は「自分はスーツが似合わない」と思ってしまうことすらある。
違うかもしれない。
その人が似合わないんじゃない。
スーツの中に残った、小さな“なんとなく”が、その人の邪魔をしているだけかもしれない。
私が消したいのは、その人を邪魔するものです。
私は、人を派手にしたいわけではありません。
スーツ好きを増やしたいわけでもない。
クラシック好きを増やしたいわけでもない。
まして、お客様を私と同じ格好にしたいわけでもありません。
私には私の好みがあります。
でも、それを目の前の人に着せることが仕事だとは思っていない。
見ているのは、その人です。
肩を見る。
胸を見る。
姿勢を見る。
普段の服を見る。
仕事を見る。
立場を見る。
どこでそのスーツを着るのかを見る。
そして、その人がどう在りたいのかを見る。
そのうえで、邪魔しているものを探す。
着丈なのか。
胸なのか。
肩なのか。
パンツなのか。
重心なのか。
一個ずつ理由を付けて、消していく。
すると、面白いことが起きます。
足していないのに、その人の存在が少し強くなる。
これを私は「静かに“尖る”」と呼んでいます。
尖るというと、人と違うことをする。
派手な服を着る。
個性的なものを身につける。
そんな意味に取られるかもしれません。
私の考えは逆です。
何かを足して尖らせるのではない。
余計なものを取った結果、尖る。
スーツだけが目立っているわけじゃない。
「あの人、服好きなんだろうな」とも思わせない。
でも、何人か並んだときに、なぜかその人が格好良く見える。
別に派手じゃない。
奇抜でもない。
周りの空気を壊してもいない。
でも、埋もれていない。
私は、この状態がものすごく格好いいと思っています。
これが、“なんとなく”を終わらせると、人は静かに“尖る”。
という言葉の意味です。
高い生地では、この部分は買えない。
20万円のスーツだから格好いい。
30万円ならもっと格好いい。
そんな簡単なら、私も楽です。
一番高い生地を勧めればいい。
もちろん、生地は大切です。仕立ても大切です。
工場の技術も大切です。
でも、
肩線をどこに置くのか。
着丈をどこまで取るのか。
胸にどれだけゆとりを入れるのか。
パンツをどう繋ぐのか。
これは生地の値段では決まりません。
高級な生地を使って、全部を“なんとなく”決めたら、
出来上がるのは、
高級な「なんとなく」です。
私は、それでは嫌なんです。
「究極の普通」は、目立つためのスーツではない。
目立たせたいわけじゃない。
それは、大事な場の空気を壊してしまうかもしれない。
古臭くしたいわけでもない。
それは煙たがられ、本人が浮いてしまうかもしれない。
流行に乗せたいわけでもない。
流行が終われば、その格好良さまで一緒に終わってしまう。
私が作りたいのは、
その人がどこにいても、その人の人生を邪魔しないスーツです。
仕事を邪魔しない。
立場を邪魔しない。
年齢を邪魔しない。
本人を邪魔しない。
でも、ちゃんと格好いい。これが難しい。
だから、私は「普通」にこだわるんです。
普通って、簡単じゃないんですよ。
むしろ一番、誤魔化しが効かない。
派手な柄で逃げられない。
流行で逃げられない。
ブランド名で逃げられない。
「クラシックだから」で逃げることもできない。
最後には、
人とスーツのバランスしか残らない。
だから私は、1930年代と1950年代に一度戻る。
そこにある構造を基準にする。
そして現代へ戻ってくる。
目の前の人を見る。
数値を動かす。
「なぜ?」を繰り返す。
違和感を探す。
その人を邪魔している“なんとなく”を、一個ずつ消していく。
そうやって最後に残ったものは、私の好みでも、流行でも、昔のスーツでもない。
その人です。
普通に立っている。
普通に仕事をしている。
普通に人と話している。
でも、なんか格好いい。
目立っていないのに、埋もれていない。
主張していないのに、ちゃんとその人がいる。
それが、私の考える格好良さです。
“なんとなく”を終わらせる。
すると、
人は静かに“尖る”。
そのために、普通を突き詰める。
それが私の、「究極の普通」です。
